遠野南部流鏑馬の紹介(遠野市指定民俗文化財)
写真による遠野南部流鏑馬次第の紹介(写真1~13)に続き、文章による歴史と次第を掲載しました。 青森県八戸市の櫛引八幡宮例祭で流鏑馬を奉納する、遠野南部流鏑馬保存会の様子も紹介しております。古式に則り奉納される遠野南部流鏑馬の様子をご覧下さい。
寛永4年の南部家の神事の取り決めが今に受け継がれ、遠野南部流鏑馬保存会は毎年、青森県八戸市の櫛引八幡宮例祭に流鏑馬を奉納しております。櫛引八幡宮例祭の例祭日は毎年旧暦の8月15日です。
遠野南部流鏑馬の歴史
遠野南部流鏑馬は建武2(1335)年8月15日、遠野南部4代の祖、師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納したものをもって創始としている。その由来は、元弘の乱で盛岡南部茂時が北条高時の滅亡に連座して鎌倉で討死にしたので、盛岡南部は一時失権した。それで、新田義貞とともに鎌倉攻めに功あった南部師行は八戸に下向し、盛岡南部に代わって南部領を統治した。当時南部氏の氏神の櫛引八幡宮は、盛岡南部の没落で祭典を中絶していたが、南部師行はこれを復活し、かつ、その祭典に鶴岡八幡宮の流鏑馬に模して流鏑馬を奉納した。その後、盛岡南部も復活して、南部領を統治することとなり、従って櫛引八幡宮の祭典も主催することとなった。しかし、正平21年盛岡南部守行は、南部信光に、「櫛引八幡の流鏑馬は貴家師行の創始であるから、今後も引き続いて従前通り貴家で行うように」と譲ったので、従前通り奉納してきた。
寛永4年、八戸南部は遠野に移封を命じられたが、盛岡南部利直は「櫛引八幡の流鏑馬は、従前通り貴家において行うように」と重ねて譲ったので、その後もわざわざ八戸に出張して奉納した。寛永4年、南部直栄は遠野に移転したが、当時の遠野八幡宮は創建者の前領主、阿曽沼氏の衰退で荒廃していたのを寛文元年、現在地に遷宮し、馬場を造り、祭典に櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納した。爾来8月は櫛引八幡、9月は遠野八幡と、明治の廃藩まで連綿と奉納してきたのである。
昭和28年これを惜しむ有志によって流鏑馬保存会が結成され、古式通りに復活して、現在に至る。
遠野南部流鏑馬は川原祓いの儀から始まる。夕刻正規の行列を作って早瀬川原に行き、人馬並びに用具を川水をもって祓い清め、その夜は参籠する。
当日は神前の儀から始まる。総奉行は射手を従えて神殿に昇り、総奉行は祭文を奏上し、神前に供えた神矢を神職から授けられる。その後馬場に場所を移し、乗り出しに設けられた席で一夜酒、西瓜を賜り弓に弦を張り、いよいよ馬場清めの儀が行われる。神職が乗り出しから馬場を清め始まると馬場入りとなり、太鼓役を先頭に記録所役2名、総奉行、乗出役、乗止役、そして射手奉行、介添奉行、的持役が3組その後に続き、矢拾役と、各々従者を従え列を作って入場する。総奉行は家老に準ずる家格の者、射手は小向、米内、是川、小笠原、水越、立花、川原木、橘、三上、千葉、正部家、坂本、中居林、十日市の14家と決まっており、介添奉行は射手一族の長老より選ばれ、いずれも馬上。その行列が馬場を一周すると、総奉行が馬場尻の席に着くのを合図に各役は各々その持ち場に着く。その終わるのを待って、総奉行は神前に向かい「遠野南部神事流鏑馬始めませ」と開技を宣する。すると乗止役は青扇を開いて、乗出役に発馬よろしと合図する。これを受けた乗出は、赤扇を上げて了解を告げると共に、太鼓を3連打させて開技を合図し、白扇を上げて射手に発馬を命ずる。射手は直ちに馬腹を蹴って発進し、ここに流鏑馬の開始となる。(遠野南部流鏑馬保存会冊子より)